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願成寺の歴史

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願成寺の歴史

古刹 願成寺


願成寺は古刹《古い時代に建てられ現存する寺》と言われていますが、1867年の塩竈大火により残念ながら当時の歴史的記録などたくさんのものが焼失してしまいました。 そのため約700年より前の歴史は不明であります。

しかし、700有余年の歴史を持つ古刹願成寺が、いかにたくさんの方々のお力によって支えられ、幾度となく復興を繰り返し、今日に至ったのか。 その由縁を知り、これからも願成寺が塩竈の地にあり続けなければならないかをわかっていただきたく存じます。

願成寺のはじまり


願成寺の歴史は松島の瑞巌寺と共にあって、瑞巌寺なくして願成寺は有り得ないといっても過言ではありません。 それはなぜか?それは願成寺にとって重要な和尚が瑞巌寺にいたからであります。

西暦1300年初頭、松島の瑞巌圓福禅寺《現 瑞巌寺》の第7世住職を務めていたのが霊巌道昭(れいがんどうしょう)和尚でありました。 霊巌和尚は文才豊かな歌人でもあり、松島と塩竈の美しさを伝え、後世にも永く愛される「松島八景詩」を詠まれ、いかに松島や塩竈を愛していたのかを表現されています。 霊巌和尚は風光明媚な塩竃になんとか寺を立てたいと思いを抱かれたのであります。

当時の交通事情を考えればとても厳しい条件であったことでありましょう。 しかし、霊巌和尚の思いは強く、幾多の試練を乗り越え“たくさんの願いを成す寺”無量山願成寺を塩竈に建立されたのであります。

こうして、開祖霊巌道昭大和尚によって願成寺の歴史がスタートしたのであります。 ちなみに願成寺の守り神 熊野大権現は、霊巌和尚が最初に学ばれた稲荷山浄妙寺の守り神でもあります。

荒廃を繰り返す願成寺


霊巌和尚は臨済宗建長寺派の和尚でありましたので、建立当時はもちろん願成寺も建長寺派でありました。 霊巌和尚が立派に建立をされた願成寺でありましたが、時代は乱世、残念ながら霊巌和尚亡き後しだいに荒廃していったのでありました。

その後、奥州で乱世を制したのが、伊達政宗公でありました。 政宗公の生涯の師、虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚が妙心寺派の和尚でありましたので、この時を境に妙心寺派が定着していったのであります。

そして、政宗公たっての希望もあり、雲居希膺(うんごきよう)和尚が瑞巌寺の99世住職になられたことで、瑞巌寺の末寺の願成寺も雲居和尚の教えを賜り、1638年8月10日に妙心寺派に属することになったようであります。

しかし、様々な加護を受けつつも再び荒れていったのであります。 そこに現れたのが天嶺性空(てんれいしょうくう)和尚でありました。

再び法灯が灯された願成寺


荒れ果てていた願成寺に救いの手を差し伸べたのが天嶺和尚でありました。 天嶺和尚が願成寺の住職となり、消えかかっていた法灯《火》に息を吹き込み、再び輝きを取り戻していったのであります。 以後、願成寺はその天嶺和尚の師匠である通玄法達(つうげんほうたつ) 和尚の教えが脈々と流れることとなったのであります。

天嶺和尚は同時期に大本山妙心寺の住職を三度に渡り務められ、1728年には瑞巌寺105世住職となられてからも禅風はますます勢いを帯び、荒れた伊達領の多くの寺院を再建復興していったのであります。 亡くなられた後もその功績が称えられ、1745年に桜町天皇より「浄智普鑑禅師(じょうちふかんぜんじ)号」を勅謚《天皇に名前を頂くこと》されたのでありました。

通玄派(※)の中に「通玄四哲」と呼ばれるお寺があります。 それは、天嶺和尚が直接住職を務めたお寺と、その弟子が尽力惜しまずに復興された四つのお寺のことであります。

天嶺和尚は大郷の桂蔵寺を弟子と共に復興しつつ、瑞巌寺と願成寺から仙台中野の誓渡寺へ、そして仙台燕沢の善應寺へと住職をして回られ、その弟子たちも願成寺、誓渡寺、桂蔵寺、仙台福室の西光寺、善應寺の住職を勤めたのでありました。 その後、「通玄四哲」と呼ばれる願成寺、誓渡寺、西光寺、桂蔵寺の四ヶ寺の住職が法源地《法の始まり、教えの始まりとなる和尚が初めに開かれたお寺 派の中心となるお寺》である善應寺を護持するために輪番制で善應寺の住職を務めたのであります。

その中でも願成寺は最多の5人の住職を輩出したのであります。 天嶺和尚がはじめに入寺され、住職を務めたことと、善應寺を支えたことから、願成寺は通玄派の法系図においては、重要な存在としてすべてのお寺の中央に記されることとなったのであります。 天嶺和尚は師匠の教えを「通玄和尚語録」としてまとめられ、その教えを広め、またその才智をもって多くの寺院に光をもたらしたのであります。

天嶺和尚は願成寺にとっては開山和尚と等しく感謝してもしきれないほどの大和尚様なのであります。 願成寺の中興開山《お寺を開き直すこと》として天嶺和尚は現在も大切に祀られております。

その後の願成寺


荒れ果てていた願成寺に救いの手を差し伸べたのが天嶺和尚でありました。 天嶺和尚が願成寺の住職となり、消えかかっていた法灯《火》に息を吹き込み、再び輝きを取り戻していったのであります。 以後、願成寺はその天嶺和尚の師匠である通玄法達(つうげんほうたつ) 和尚の教えが脈々と流れることとなったのであります。

天嶺和尚は同時期に大本山妙心寺の住職を三度に渡り務められ、1728年には瑞巌寺105世住職となられてからも禅風はますます勢いを帯び、荒れた伊達領の多くの寺院を再建復興していったのであります。 亡くなられた後もその功績が称えられ、1745年に桜町天皇より「浄智普鑑禅師(じょうちふかんぜんじ)号」を勅謚《天皇に名前を頂くこと》されたのでありました。

通玄派(※)の中に「通玄四哲」と呼ばれるお寺があります。 それは、天嶺和尚が直接住職を務めたお寺と、その弟子が尽力惜しまずに復興された四つのお寺のことであります。

天嶺和尚は大郷の桂蔵寺を弟子と共に復興しつつ、瑞巌寺と願成寺から仙台中野の誓渡寺へ、そして仙台燕沢の善應寺へと住職をして回られ、その弟子たちも願成寺、誓渡寺、桂蔵寺、仙台福室の西光寺、善應寺の住職を勤めたのでありました。 その後、「通玄四哲」と呼ばれる願成寺、誓渡寺、西光寺、桂蔵寺の四ヶ寺の住職が法源地《法の始まり、教えの始まりとなる和尚が初めに開かれたお寺 派の中心となるお寺》である善應寺を護持するために輪番制で善應寺の住職を務めたのであります。

その中でも願成寺は最多の5人の住職を輩出したのであります。 天嶺和尚がはじめに入寺され、住職を務めたことと、善應寺を支えたことから、願成寺は通玄派の法系図においては、重要な存在としてすべてのお寺の中央に記されることとなったのであります。 天嶺和尚は師匠の教えを「通玄和尚語録」としてまとめられ、その教えを広め、またその才智をもって多くの寺院に光をもたらしたのであります。

天嶺和尚は願成寺にとっては開山和尚と等しく感謝してもしきれないほどの大和尚様なのであります。 願成寺の中興開山《お寺を開き直すこと》として天嶺和尚は現在も大切に祀られております。

※通玄派と願成寺

願成寺は瑞巌寺の末寺であり、その中の通玄派という派閥に属していいます。 この○○派というのはどの和尚様がお寺を開いたか復興させたか、どの教え《法脈》が継承されたかによって分かれています。願成寺は通玄法達和尚の教えが受け継がれているお寺ですので通玄派となります。

通玄和尚は伊達四代綱村公の要請で善應寺《当時の名は聖徳寺》を開山され、大本山妙心寺の住職も務められた徳の高い和尚様です。 通玄派の願成寺にとっては、「大本山」が京都の妙心寺、「本寺」が松島の瑞巌寺、「法源地」《法の始まりの地》が燕沢の善應寺となります。

その通玄和尚の法によって結びつく法類寺院《十六ヶ寺》善應寺、願成寺、誓渡寺、西光寺、桂蔵寺、松林寺、西園寺、安国寺、淨勝寺、地福寺、金剛寺、葦航寺、長養寺、天祥寺、大梅寺、永安寺は、現在においても法源地である善應寺を称えつつも、常に助け合わなければならない大切なつながりを今も持っています。

願成寺歴代住職


開山霊巌道昭和尚(瑞巌寺七世住職)
中興開山 天嶺性空和尚(瑞巌寺百五世住職 善應寺中興開山)

第一世芳谷東礬和尚
第二世匡山東廬和尚(善應寺第七世住職)
第三世香嶽東樹和尚(善應寺第十世住職)
第四世椿嶺東琡和尚
第五世頑應玄悦和尚(善應寺第十一世住職)
第六世由道良廸和尚(瑞巌寺第百十九世住職 善應寺第十五世住職)
第七世閻州浮木和尚(善應寺第十八世住職)
第八世斯教東如和尚
再中興第九世周應惠人和尚
第十世宗因久直和尚
第十一世玄秀博道和尚
第十二世 再住宗因久直和尚
第十三世 現住秀道宗博和尚
松島・塩竃の地は陸奥国府多賀城が近くにあったために平安時代より紫式部、能因法師、西行法師他多くの歌人によって塩松地方と称され古歌に読まれている風光明媚な地でした。

また、五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、建仁寺、東福寺、足利義満時代は建長、円覚、寿福、浄智寺、浄妙寺が鎌倉五山)への出世道場でもあり、五山から修行に来る人、五山へ上山する人がたえず住職を務めておりました。
7世霊玄禅師は大覚派の相模の稲荷山浄妙寺の僧で浄智寺の桑田道海の嗣で後に建長寺に留り上首となり浄妙寺瑞竜庵で寂しておりますがその年代は不明。

願成寺を開山する以前、霊厳は瑞巌寺で松島八景を詠んでおり、江戸時代の歌人大淀三千風が「松島眺望集」の中で霊厳和尚は五山文学に先行する気韻の高さを示すもの、と評価しております。

本堂の様子

人口に膾炙し愛吟されたその思いを籠めて、塩竃の地に開山したのが「無量山 願成寺」でした。


宗教法人 願成寺
電話:022-362-0722
〒985-0024 宮城県 塩釜市錦町3-5